水滸伝関連書籍bot ひとこと感想 047
魯智深と武松がひとしきり大暴れをし、物語世界を揺さぶったあと、前面から後退すると、選手交代とばかりに李逵が登場し破壊力を発揮するという展開になっています。これは、いいかえれば、長篇小説『水滸伝』の構造において、トリックスターは「並存」しえないことを意味しています。
— 水滸伝関連書籍bot (@shuihu_related) 2019年9月25日
【五大】
さて。
本当に、トリックスターとは並存しえないものなのでしょうか?
『水滸伝の世界』が説くように、魯智深、武松、李逵のパーソナリティーは、よくよく見るとかなり異なっています。
色々なタイプのトリックスターが並列して存在し、それぞれの持ち味を活かして、入れ代わり立ち代わり、様々な場面で活躍する、そんな物語があってもいいではないか。
…などと、現代の我々は考えてしまいますが、
重要なのは、
「水滸伝の作者が、『トリックスターは並存しえないものだ』と信じていた」
ということなのです。
水滸伝の作者は他にも、現代の物語消費者たる我々が簡単に越えられる「ちょっとした段差」のことを、「越えられない壁」と信じていたフシがあります。
こうした認識のギャップに注目し、考察を深めていけば、「物語」というジャンルの千年にわたる進化の歴史が、我々の前に姿を現す……
かも、しれませんね。
閑話休題、
『水滸後伝』の世界では、魯智深が円寂し、李逵が毒を飲んで死に、片腕を失った武松は、全ての情熱を燃やし尽くしたかのように、静かに余生を送っています。
その三人がいなければ、トリックスターの役割を負える人物がいないではないか、とお考えでしょうか?
いやいや、それは違います。
石碣村の大豪傑、活閻羅の阮小七。彼こそが、トリックスターの役割を受け継ぎ、演じてゆくのです。
……まあ、もとから、酒を入れ替えてみたり黄色い服を着てみたり、トリックスターの素質は充分にありましたからね。
「大した奴は生き残ってない」などと言われる過酷な状況の中では、まず、ベストの人選でありましょう。
陳忱先生、GJです。