梁山から来ました

中華圏の小説、ポーランドボール、SCP財団、作曲、描画などが好き。皆様のお役に立てる/楽しんでいただけるコンテンツ作りを目指して、試行錯誤の日々です。

水滸伝関連書籍bot ひとこと感想 047


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さて。

本当に、トリックスターとは並存しえないものなのでしょうか?

水滸伝の世界』が説くように、魯智深、武松、李逵のパーソナリティーは、よくよく見るとかなり異なっています。

色々なタイプのトリックスターが並列して存在し、それぞれの持ち味を活かして、入れ代わり立ち代わり、様々な場面で活躍する、そんな物語があってもいいではないか。

 

…などと、現代の我々は考えてしまいますが、

重要なのは、

水滸伝の作者が、『トリックスターは並存しえないものだ』と信じていた」

ということなのです。

 

水滸伝の作者は他にも、現代の物語消費者たる我々が簡単に越えられる「ちょっとした段差」のことを、「越えられない壁」と信じていたフシがあります。

こうした認識のギャップに注目し、考察を深めていけば、「物語」というジャンルの千年にわたる進化の歴史が、我々の前に姿を現す……

かも、しれませんね。

 

閑話休題

水滸後伝』の世界では、魯智深が円寂し、李逵が毒を飲んで死に、片腕を失った武松は、全ての情熱を燃やし尽くしたかのように、静かに余生を送っています。

その三人がいなければ、トリックスターの役割を負える人物がいないではないか、とお考えでしょうか?

いやいや、それは違います。

石碣村の大豪傑、活閻羅の阮小七。彼こそが、トリックスターの役割を受け継ぎ、演じてゆくのです。

 

……まあ、もとから、酒を入れ替えてみたり黄色い服を着てみたり、トリックスターの素質は充分にありましたからね。

「大した奴は生き残ってない」などと言われる過酷な状況の中では、まず、ベストの人選でありましょう。

陳忱先生、GJです。