水滸伝関連書籍bot ひとこと感想 046
宣和時代(一一一九―二五年)とはそもそもどんな時代であったであろうか。それは一口にいえば好景気の時代であったといえる。ただしそれは本当に生産が活潑化したうえでの好景気ではなく、むしろ人為的に造り出された表面的な好景気であった。
— 水滸伝関連書籍bot (@shuihu_related) 2019年9月23日
【虚実】
個人的には、この
「表面的には平和な時代を舞台としている」
という点が、『水滸伝』という作品の、大きな魅力のひとつであると考えています。
古今東西、戦乱の世を題材とした作品は数多いですが、実はあまりピンとこない部分がありまして…。
というのも、頭が悪いので、数がちゃんと数えられないんですよ。
同じような規模の勢力が三つとか七つとか出てくると、もう混乱してしまうのです。
「圧倒的な存在が我々の天下を支配している」という前提がまずあって、それに対抗する勢力が内外にいくつか見られる、という構図の方が、ずっと分かりやすい気がするんですが……
まあ、そんな妙な脳の構造してるのは、自分だけかもしれませんね。
そんな個人の脳の問題はさておき、です。
「表面的には平和な時代」を舞台としたエンタメの価値は、今だからこそ再評価されていいと思うんですね。
たくさんのひずみを「見なかったこと」にして、安穏とした生活を続けているのは、北宋末の庶民も我々も、同じなのかもしれません。
社会の進化によって「ひずみ」の質は多少変わったかもしれませんが、それが依然として存在していることは、否定しえない事実でしょう。
智取生辰綱のワンシーンで、
「今は太平の世ではない」と言う楊志さんに対し、
都管(蔡京の娘、つまり梁中書の妻の乳母の夫)が「言葉を慎みなされ」と詰め寄る場面があります。
七人の棗売り登場の直前ですね。
この場面をうまいこと、……ね。
ぜひ今後、水滸伝を題材に何か書かれる方には、大切にしていただければうれしい限りですし、
自分もまあ、……ね。その、はい、……です。