梁山から来ました

中華圏の小説、ポーランドボール、SCP財団、作曲、描画などが好き。皆様のお役に立てる/楽しんでいただけるコンテンツ作りを目指して、試行錯誤の日々です。

「水滸好きさんに質問」第10回への回答


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パッと思いついたのは、朱富か裴宣か、というところです。

 

◆朱富

まず、「一度出来た縁は大切にする」という点がポイント高いです。

それから、「何の特技も持たない自分でも、朱富の手伝いならできることもありそう」というのがあります。朱富が買い出しで店を離れてる間、鍋を弱火にかけて掻き回しつづける、程度のことなら、多分……。酒は一滴も飲ま(め)ないんで、盗み飲みする心配もないですしね!

……って、もしこれが職人気質の好漢なら、あちらから「てやんでえ、俺の酒が飲めねえ奴なんざと付き合ってられっかい!」と断られそうなところですが、朱富はその点も寛容です。同じく下戸の李雲先生ともうまくやってます。自分は李雲先生と一緒に朱富お手製のノンアルドリンクを有り難くいただくことにします。

そしてメシウマなのもいいです。まあ他の居酒屋連中も大概メシウマではあると思いますが、いくらおいしくても、李立と孫二娘の料理には、ほら……一抹の不安が……あるじゃないですか。

 

◆裴宣

義兄弟になることを想像すると、どうしても「自分が相手に対して何をしてあげられるのか?」が気になります。

まあ、神がかりの好漢たちに対して自分ができることなんかたくさんはないわけですが、「正しいと思ったことのために一緒に死んであげる」ということは、一回限り、できるはずなんですね。

でも、行動原理がちゃらんぽらんな好漢が信じた「正しいこと」のために死ぬのは、やっぱりイヤじゃないですか。あまり高い命ではないとしても、一つしかないわけだし。後から天国的な場所で、「やっぱり俺が間違ってたよ!ゴメンね!てへペロ」って言われても……まあ死んだものは仕方ないし、最終的には「いいよ!」って言うしかないですが、モヤモヤは残りますよね。

その点、裴宣なら、恐らく「このために死んでもいいと思う、正しいこと」を見誤らないと思います。彼が信じた「正しいこと」のためなら、一緒に死ねます。

まあ、いくら裴宣とても、ものすごく巧みな詐欺に引っかかってしまう可能性はゼロではないでしょうが……そのときはもう、腹を括るだけです。裴宣で見抜けないなら致し方ない、と。

人一人を信じたら、状況に左右されることなく、最期まで命運を供にする。

「義兄弟になる」って、そういうことだと思うのです。