梁山から来ました

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水滸伝関連書籍bot ひとこと感想 069


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高島先生に握手を求めに行きたい気持ちでいっぱいです。この感覚、実によくわかります。

 

自分が初めて中国白話小説らしき本に触れたのは高1の頃、『封神演義(安能版)』でした。

大変面白く読み進めていたわけですが、あるとき、颯爽と戦っていた黄天化(←重要人物。重要度は恐らく『水滸伝』における花栄くらい)が、戦場であっさり殺されておしまいになったんですね。

もうあまりのショックで一晩立ち直れず、次の日『封神演義』読者の友人に会うやいなや、「天化が死んじゃった…」と訴えたわけですが、

その友人は涼しい顔で「あー、天化ね!死ぬよー!」と答えてきまして、

新しい傷に塩を擦り込まれる結果となったのでありました。

 

後にはあれほど中国の白話小説に通暁された高島先生も、少年時代には自分と似た道を通っていらしたわけですね。『水滸伝の世界』でこのエピソードを読んで、勝手に親近感を感じてしまいました。

 

 

さて『封神演義』についてですが、安能版であれ原作であれ、前半はあまり人死にが出ないんですよ。もちろん妲己ちゃんが極悪非道なせいで死ぬ人間は多いんですが、戦いのなかでは人も神仙も、殆ど命を落としません。戦場は、殺し合いの場というより、互いに派手な技を見せつけてドヤり合う場として機能しています。

それが突然、中頃のある時点を境に、殷側からも周側からもばったばったと戦死者が出まくり、魂魄が封神台に雨あられと降り注ぐ段階に突入します。

黄天化の死は、その新しいフェーズの幕明けを告げるかのようなタイミングなので、平和ボケの頭を思いっきりはたかれたみたいで、余計に印象に残るんですね。(『水滸伝』で言えば、作中での意義的には徐寧の死、インパクトで言えば張順の死に近いかもしれません。その二つのハイブリッドと言えば、どれほど強烈かわかりますでしょうか)

 

 

水滸伝』にせよ『封神演義』にせよ、戦死者が出ないフェーズと出るフェーズのギャップはあまりに大きく、かつハードランディングです。そのため現代の読者は、つい「もうちょっと計画的に殺していこうや……」と思ってしまいがちです。

 

しかし、ふと考えました。

「実は、前近代の中国の民衆にとっては、こっちの方がリアルの感覚に近いのかもしれない」……と。

 

戦場において人死にとは、一定数ずつコンスタントに出るものではないんですよ、きっと。

小競り合い程度の戦闘しかなかったり、自軍の兵力か技術力が相手を遥かに上回っていたりすれば、よほどのドジを踏まない限り、殆ど死者を出さずに行軍できます。

しかし、戦局とは変化するもの。計略にかかって不利な土地に誘い込まれたり、圧倒的な兵力や技術力を持つ相手に出会ったりすれば、死者の数や割合が突如として跳ね上がるのは、目に見えています。

この現象を隊の生き残りに語らせれば、

「趙隊長も、銭のおやっさんも、相方の孫も、李のボウズも……みんなみんな、半時もしないうちに殺され尽くしちまった……。昨日まであんなに冗談言って笑い合って、全員揃って帰れるんだと思ってたのに」

ってな感じになるわけです。

 

まあ、『水滸伝』や『封神演義』の場合、大量死は物語上の必然によるもの(要するに途中で作者が「このペースでちんたら殺してたら尺が足りない!もっと巻きで行かなきゃ!」と気づいたから)とは思うのですが、だからといってこれが、中国前近代の民衆の直感に反する展開だったとは、必ずしも決めつけられない……という話なのでした。

 

 

……えーと、ツイートの内容と全然関係ない話になってしまいましたが……まあ、自分がわざわざ関勝のご先祖様について言及しても、深いことは言えそうにないし、需要もないでしょうからね。

(と言うか、そもそもこのブログに「需要」なんてものがあるのか?うーん……)

 

 

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