水滸伝関連書籍bot ひとこと感想 069
たしか中学にはいったばかりのころ、吉川英治の『三国志』を愛読し、関羽や張飛の活躍に胸おどらせた。関羽が死んだ時には、目の前がモウロウとして腰が抜けたようになり、翌日学校へ行って一番仲のよかった友だちに、「関羽が死んだ……」と言ったのをおぼえている。
— 水滸伝関連書籍bot (@shuihu_related) 2020年1月30日
【世界】
高島先生に握手を求めに行きたい気持ちでいっぱいです。この感覚、実によくわかります。
自分が初めて中国白話小説らしき本に触れたのは高1の頃、『封神演義(安能版)』でした。
大変面白く読み進めていたわけですが、あるとき、颯爽と戦っていた黄天化(←重要人物。重要度は恐らく『水滸伝』における花栄くらい)が、戦場であっさり殺されておしまいになったんですね。
もうあまりのショックで一晩立ち直れず、次の日『封神演義』読者の友人に会うやいなや、「天化が死んじゃった…」と訴えたわけですが、
その友人は涼しい顔で「あー、天化ね!死ぬよー!」と答えてきまして、
新しい傷に塩を擦り込まれる結果となったのでありました。
後にはあれほど中国の白話小説に通暁された高島先生も、少年時代には自分と似た道を通っていらしたわけですね。『水滸伝の世界』でこのエピソードを読んで、勝手に親近感を感じてしまいました。
さて『封神演義』についてですが、安能版であれ原作であれ、前半はあまり人死にが出ないんですよ。もちろん妲己ちゃんが極悪非道なせいで死ぬ人間は多いんですが、戦いのなかでは人も神仙も、殆ど命を落としません。戦場は、殺し合いの場というより、互いに派手な技を見せつけてドヤり合う場として機能しています。
それが突然、中頃のある時点を境に、殷側からも周側からもばったばったと戦死者が出まくり、魂魄が封神台に雨あられと降り注ぐ段階に突入します。
黄天化の死は、その新しいフェーズの幕明けを告げるかのようなタイミングなので、平和ボケの頭を思いっきりはたかれたみたいで、余計に印象に残るんですね。(『水滸伝』で言えば、作中での意義的には徐寧の死、インパクトで言えば張順の死に近いかもしれません。その二つのハイブリッドと言えば、どれほど強烈かわかりますでしょうか)
『水滸伝』にせよ『封神演義』にせよ、戦死者が出ないフェーズと出るフェーズのギャップはあまりに大きく、かつハードランディングです。そのため現代の読者は、つい「もうちょっと計画的に殺していこうや……」と思ってしまいがちです。
しかし、ふと考えました。
「実は、前近代の中国の民衆にとっては、こっちの方がリアルの感覚に近いのかもしれない」……と。
戦場において人死にとは、一定数ずつコンスタントに出るものではないんですよ、きっと。
小競り合い程度の戦闘しかなかったり、自軍の兵力か技術力が相手を遥かに上回っていたりすれば、よほどのドジを踏まない限り、殆ど死者を出さずに行軍できます。
しかし、戦局とは変化するもの。計略にかかって不利な土地に誘い込まれたり、圧倒的な兵力や技術力を持つ相手に出会ったりすれば、死者の数や割合が突如として跳ね上がるのは、目に見えています。
この現象を隊の生き残りに語らせれば、
「趙隊長も、銭のおやっさんも、相方の孫も、李のボウズも……みんなみんな、半時もしないうちに殺され尽くしちまった……。昨日まであんなに冗談言って笑い合って、全員揃って帰れるんだと思ってたのに」
ってな感じになるわけです。
まあ、『水滸伝』や『封神演義』の場合、大量死は物語上の必然によるもの(要するに途中で作者が「このペースでちんたら殺してたら尺が足りない!もっと巻きで行かなきゃ!」と気づいたから)とは思うのですが、だからといってこれが、中国前近代の民衆の直感に反する展開だったとは、必ずしも決めつけられない……という話なのでした。
……えーと、ツイートの内容と全然関係ない話になってしまいましたが……まあ、自分がわざわざ関勝のご先祖様について言及しても、深いことは言えそうにないし、需要もないでしょうからね。
(と言うか、そもそもこのブログに「需要」なんてものがあるのか?うーん……)
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