水滸伝関連書籍bot ひとこと感想 067
わが国でかたきうちといえば忠臣蔵だが、四十七士が吉良上野を討ちはたして、車座になってこれを食ったりしては、到底人に受け入れられるはずがないし、だいいちそんな話にすることを思いつく人もいないだろう。つまりわが国ではそれは「オハナシにならぬ」のである。
— 水滸伝関連書籍bot (@shuihu_related) 2020年1月27日
【世界】
……これは、朝からアレなツイートが出てしまいましたね。まあ、星の数ほどあるエンタメ作品の中からわざわざ『水滸伝』を選んで深読みされている皆様であれば、この程度は許容範囲でいらっしゃるとは思いますが。
『水滸伝の世界』中の「人を食った話」の章は、大変興味深い内容ではあるんですが、どうにも凄惨な描写が多く、一体どこまでをbotにつぶやかせていいものか、悩ましいところがあります。
以下の話も相当にエグい内容となりますので、耐性のない方はお気をつけください。
さて。前近代の中国では、社会が荒廃した時期に、絶対に許すことのできない憎悪の対象たる人物を殺して(あるいは生きながらにして身を抉って)食べてしまう、という事件が実際にあったそうです。
新王朝を建てた王莽なんかは、あまりに多くの人から恨みを買っていたために、死後、「何としても奴を喰ってやりたい」と望む多くの民衆の手によって身体が千切られ、細切れになってしまった、とか……。
『水滸伝』の中にも、高俅の次くらいにはランクインしそうな憎まれ役・黄文炳が、生きたまま喰われる描写がありますね。
自分もこれまで様々な解説書を読んで、中国の民衆に根ざした思想が(昔よりは)理解できるようになってきた実感があるんですが、この「仇の肉を喰らう」心理だけは、ちょっとわかりません。
「残酷だ」と言いたいわけじゃなくて、単に「そのやり方では気持ちが晴れないんじゃないか」と思うのです。
現代人なら誰でも知っていることながら、食べたものは、自分の血肉となるんですよね。仇の肉を食べるということは、考えるだけで腸が煮えくり返るような憎悪の対象が、細胞レベルで自分と同化し、いつも共に在り続けるということです。不倶戴天どころか、健やかなるときも病めるときも、未来永劫、同じ天を戴き続ける羽目に……。
どうですかね、そういうの?自分はイヤです(キッパリ)。
昔の中国人は「食べたものが、やがて自分の身体の構成物となる」という意識が薄かったんですかね?とてもそうは思えないんですが。「医食同源」とか、「身体のどこかに不調があるときは、動物のその部分を食べるといい」なんて考え方が中国から来ている以上は。
それか……もしかすると、逆に「仇の一部を自分と同化させる」ことが目的だったりするんでしょうかね。あんまり憎くて憎くて憎いから、一度サクッと殺しただけでは気持ちが晴れなくて、相手の肉を自分の身体に取り込むことでこの世に留め、自分が死ぬまでずっと虐め殺し続ける、みたいな……。
うーん、やっぱりちょっと、よくわからない世界だ……。
まあ、「お前が他人に対してそこまでとんでもない恨みを抱いた経験がないから、わからないんだ」と言われてしまえば、それまでなんですが。
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