梁山から来ました

中華圏の小説、ポーランドボール、SCP財団、作曲、描画などが好き。皆様のお役に立てる/楽しんでいただけるコンテンツ作りを目指して、試行錯誤の日々です。

「武俠好きさんに質問」第17回への回答


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世間の評価とは全く関係なく、「個人的に好き」な終わり方の作品はと言いますと、『雪山飛狐』『俠客行』『笑傲江湖』『鴛鴦刀』(全て原作小説)です。

 

では、一つひとつ見ていきましょう。

…の前に、話題の特性上、ここからはネタバレ全開フルスロットルですので、上記作品の中に未読があって、ネタバレを見たくない方は、ここでブラウザをそっと閉じていただきますようお願いします。

 

 

 

 

よろしいでしょうか。では始めます。

 

『俠客行』

石くん(仮)(←狗雑種の少年のことですが、ここではこう呼びます)が、「ぼくは一体誰なんだ!」と混乱に陥ったところで幕が降ります。

なかなかに衝撃的なラストですが、実は石くん(仮)の正体が判断できる材料は、それまでの話の中で全て出揃っているんですね。これでもし、石くん(仮)が石清夫妻の子どもじゃないって言うのなら、読者が今まで見せられてきた紆余曲折は一体何だったのか、という。

だから、理屈の上での結論はもう出ているんです。あとは当事者、つまり石くん(仮)と石清夫妻が感情面で納得すれば全て解決。しかしこれは時間の問題でしょう。そこまで丁寧に描くと「やり過ぎ」感が出てくる気がするんですね。

だからこそ、ここで終わるのが完璧だと思います。宮部みゆき先生の『火車』と同じで、幕引きの強烈なインパクトにより読者の心に爪痕を残す作品です。

 

 

笑傲江湖

恒山派以外の勢力が殆ど死に絶えてしまって、正派の実質的な頭領となった令狐冲と、任我行の急逝により日月神教の教主の座を継いで、邪派の最高権力者となった盈盈。この二人の婚姻により、正派と邪派の長年にわたる確執が解消されます。

そして、この偉業を成し遂げた二人はその地位を人に譲り、武林の抗争から遠く離れたところに隠棲します。

この長大でよく脇道に逸れるw物語は、実は最初からこの終着点を見据えて動いてきたわけです。正派の中にも人を蹴落として権力を握ろうと画策する腹黒い輩あり、邪派の中にも友のためなら命を惜しまない愛すべき人物あり。彼らと令狐冲とのやりとりは、このラストを迎えるために、必要なことだったんですね。『うしおととら』に出てきた、「お前たちの旅は無駄ではなかった…!」という言葉を、令狐冲と盈盈にも贈ってあげたいです。

また、この二人が、劉正風と曲洋が作った秘曲「笑傲江湖」の継承者である、というのも泣かせます。劉・曲の二人の悲願は、時を経て、令狐冲と盈盈の手で叶えられたわけですね。

 

 

鴛鴦刀

金庸の短編集に収録されている『鴛鴦刀』は、武俠の要素をふんだんに盛り込んではいますが、やはり長編とは毛色の異なる作品です。自分はこれを「吉本新喜劇」を観るような感覚で読みました。

キャラの濃い登場人物たちのマヌケな掛け合いによって話が進行し、後半になるにつれて女の子が怖いおじさんに誘拐されたりとシリアスな展開になり、やがて真実が明かされて「いい話」になるんですが、最後の最後にうまい「オチ」が待っています。

このオチ、よく考えると『ジャイアントロボOVA』と同じで「いや、そんなことのためにどれだけの人死にを出しとんねん!」とツッコミたくなるんですが、まあ、そこはそれ、この話の本質はギャグだから……。「吉本新喜劇」の脚本を見るような目で、見守っていただければ……。

 

 

雪山飛狐

そうです、かの悪名高いw『雪山飛狐』です。

この話は金庸の長編の中では一番短く、構成も他とはかなり異なります。個人的には、通常の武俠小説の枠内に収まるものとは考えていません。

では何なのかと言えば、「『時』をテーマとした前衛芸術」ではないかと……。

この作品の舞台となる雪山には、たくさんの「時」が混在しています。十数人の人々が山荘に閉じ込められた「現在」を起点に、百年前の李自成の死を巡り四人の部下たちに訪れた悲劇、二十数年前の「雪山飛狐」が生まれた夜、十数年前の苗若蘭が父親の昔語りを聞いた夜、つい最近の田帰農が死んだ夜など、読者は実に様々な「過去」へと連れ回されます。

後半、財宝が眠る洞窟で、田家と苗家の祖先が見つかるくだりも圧巻ですね。舞台が雪山なので、田・苗の死体は生前の容姿のまま凍りついてしまい、自分たちの死の真相を、数十年後の後輩たちの前に、まざまざとさらけ出したわけです。

しかし、…この物語は、「過去」のことは明らかにしていくけれども、苗人鳳と胡斐が果たし合いを始めたところから「未来」へと、時が流れることを許しません。この世界の時間はその一点で凍りつくことによって、読者に対し、幾つかの可能性を提示したままで終わりを迎えます。

メタ的なことを言えば、金庸十五作を作中世界の時系列順に並べると、(時代がはっきりしない作品もありますが)『越女剣』、『天龍八部』に始まって、最後はこの『雪山飛狐』になります。一作品のことだけでなく、「金庸ワールド」の全ての時間が、この果たし合いの時点で凍りつくのです。

金庸先生は、『雪山飛狐』以外の全ての作品で、ラスト直前で難しい問題に直面した主人公たちに、「それなりの落としどころ」を見つけさせてきました。たとえそれが誰かの思いや命を犠牲にするものであっても、結末は提示しなければならなかったのです。しかし『雪山飛狐』に対しては、それをしなくてよかった。なぜなら、ここから先へは時間が流れてゆかないからです。

複数の可能性に対し開かれた状態のままで、「金庸ワールド」は終焉を迎えます。読者の度肝を抜く仕掛けの数々に満ちていたこの世界には、相応しい終わり方だと、個人的には考えています。

……って、金庸先生がそういう考えのもとで『雪山飛狐』を書かれたかどうかは、わからないんですけどね。世界に一人くらい、こういう穿った見方で、この作品のラストを評価する人間がいても、いいんじゃないかと思います。