梁山から来ました

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水滸伝関連書籍bot ひとこと感想 038


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そこはそれ、南宋から明初にかけての三百年間、講釈というかたちで衆目に晒されまくり、鍛えられまくった物語ですから、一味違いますよね。

聴衆から「何でこの人、ここでわざわざこんな行動をとるの?」なんて突っ込まれれば、講釈師たちも、何とか合理的な理由を見いだそうとして頭を働かせます。

講釈師たちがひねり出した理由のなかで、より「それらしい」ものが数百年を生き残り、小説水滸伝の作者に採用されるに至った、ということなのでしょう。

 

 

登場人物の行動を説明する心理状態の推移が見事に描かれている場面としては、個人的には「智取生辰綱」を一番に挙げたいところです。

 

何としても十万貫の荷物を蔡京に届けねばならないというプレッシャーのもと、兵士たちに辛くあたって、その怨みを一身に受けることとなった中間管理職の楊志さんが、怪しい棗売りの集団や酒売りの挙動に翻弄され、兵士や虞公の突き上げを食らって、酒を買うことを許可し、自身もその酒に口をつけるまでの複雑な心理の動きが、手に取るようにわかります。

 

また、智取生辰綱のエピソードを通じて、楊志とその部下たちの考えていることは読者に筒抜けなのに、棗売りたち(晁蓋ら7人)と酒売り(白勝)の心の内が一切明かされないのも、上手いなーと思うんですよね。

 

読者や聴衆は、果たして彼らこそが、前回出てきた生辰綱強奪を目論む好漢の集団なのか、あの酒には仕掛けがあるのか、あるとしたらどうやって仕込んだものなのかと、ハラハラしています。

だからこそ作者(講釈師)は敢えて、兵士たちがしびれ薬入りの酒を買った瞬間や、楊志が酒を口に含んだ瞬間に、8人が心の中で快哉を叫んだことを語りません。

彼らの胸の内は、全てが終わった後に、策略の一部始終とともに明らかになるのです。

あの種明かしパートのスッキリ感は、こうしたテクニックの積み重ねによって、増幅されたものなんですね。

 

何とも、心憎い演出ではありませんか。

(楊志さんはひたすら可哀想ですけどね……)