梁山から来ました

中華圏の小説、ポーランドボール、SCP財団、作曲、描画などが好き。皆様のお役に立てる/楽しんでいただけるコンテンツ作りを目指して、試行錯誤の日々です。

水滸伝関連書籍bot ひとこと感想 009


あぁあう…盛大に誤字ってしまいましたorz
マスターデータを直しておきましたので、2度目は間違いません!何卒お許しくださいまし……!!

それで、この文の内容のことなんですが。
実は、108人くらいの物語なら、頑張れば割と何とか書けるんですよ。
「どんなに長くても足りない」というほどのことはないです。
自分、70くらい書いたところでライフスタイルが変わって続けられなくなったんですが、それでも折り返してはいます。全然歯が立たない、という数ではありません。

ただ…それは、ありとあらゆる物語の形態が出尽くした現代だから、可能なことだったりするんですよね。
智取生辰綱に巻き込まれ、ひとり捕まってしまった白勝が牢内で巡らせる思考を微細に書き出してゆけば、それは立派に白勝の物語となる。
共に梁山入りしないかとの単廷珪の誘いを拒絶し「関勝殿が自ら説得に来たら、そのときは考えてやってもいい」と言い返す魏定国の思惑をじっくり探れば、それこそが魏定国の物語になりうる。
そうわかっているからこそ、「頑張れば108人分の物語が描ける」と言えるわけで…。

宋から明にかけての中国では、「物語の主人公」というのはやはり、切った張ったの大事件の中心にいるキャラクターを言ったのだろうと思います。
事件にとって重要な役割を果たさない人物は、いくら面白い思考を巡らせたとしても、主役と見なされることはありません。
だから、ある人物を主役にするためには、彼のための事件が必要となる。
一つの作品の中で108回以上(好漢によっては2〜3個のエピソードの主役を張るので、実際には150とかそのくらい)の事件を起こすのは、ちょっと現実的ではないですよね。

その文脈に沿えば、「いくら長くても足りない」という認識こそが、正しいことになります。

「真実は一つではない」という言葉の意味を改めて考えさせられる、そんな宵でありました。

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