梁山から来ました

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十数回目の『水滸伝』通し読み記録 006

祝家荘戦が終わり、頭領たちが多数の新しい仲間たちを引き連れて、意気揚々と梁山泊に戻ってくる頃になると、十数回目の読者としては、ちょっと憂鬱な気分になります。
そう、『水滸伝』史上最悪のエピソード、「朱仝の仲間入り」が近づいていることがわかっているからでして……。


このエピソードについてですが、「知府の坊っちゃんを殺してまで朱仝に仲間入りを強要する」という梁山泊側の手口が悪辣であることには、今更、異論はないと思います。現代の評論家の先生方も、口を揃えて「ひどすぎる」とおっしゃっています。
ただ、今回読んでいて気になったのは、梁山泊側ではなく、朱仝さんの方のリアクションなんですね。
どうも、現代の日本人の常識に照らしてみると、逐一とんちんかんというか、状況にそぐわない反応を返しているように見えてしまうのです。
順を追って、一つずつ見ていきましょうか。


柴進の家で呉用と雷横に再会し、李逵が知府の坊っちゃんを殺したのは宋江の命令によるものだと知った朱仝は、「李逵がいる限りは、自分は死んでも梁山に上らない」と言い張ります。
→いや、李逵がどうこう言うより、そもそもの元凶は宋江なんだから、そっちを気にした方がいいんじゃないかな……。

朱仝が、「坊っちゃんの死を知った知府が自分の家族を逮捕しに行くのではないか」と気にすると、呉用は「宋江が彼らを山に引き取っているはずだ」と言います。朱仝はそれを聞いていささか安心しました。
→家族の身柄を引き取ったのは、目的のためなら幼子を殺すことすら厭わない鬼のような宋江だってのに、安心していていいのだろうか……?

朱仝は呉用と雷横について梁山泊に行き、晁蓋宋江に会います。一行は挨拶を交わすと、聚義庁に行って昔話をしました。
→謝ってもらうのが先じゃないのか?ずいぶん悠長だなあ……。

朱仝が家族のことを口にすると、宋江はカラカラ笑って、「とっくにこちらに引き取り、私の父のところでお世話しています」と言います。朱仝はこれを聞いて大いに喜びました。
→「人質にとられたようなものだ」とか思わないのかな……。

朱仝は宋太公の家で家族全員と再会します。彼は宋江たちに拝礼して感謝しました。
→うん、なんかもう……朱仝さんがそれでいいならいいのかな……死んだ坊っちゃんは浮かばれないだろうなあ……。

とまあ、こんな感じで彼は梁山泊に落ち着いていくわけです。


朱仝さんのリアクションについて考えれば考えるほど、彼が暮らす『水滸伝ワールド』と現代の日本とが、いかに遠く離れた場所かを思い知ることになります。
(物理的にもですが、主には常識の面で…ですね)

朱仝さんのリアクションがこの程度で済んでいるということは、彼は我々が考えるほどには、可哀想ではなかったのかもしれません。


でも……いや、だからこそ、
水滸伝』のリメイクを手がける後世の小説家や漫画家は、このエピソードの扱いに困るのだと思います。

現代の日本人が描き出す物語においては、朱仝さんに上のようなリアクションをさせるわけにはいきません。それでは読者さんが納得しない。

では、どう改変したら納得してもらえるのかと言うと、
……これが大変難しいのです。
李逵坊っちゃんを殺した時点で、もう擁護のしようがない、というか。

それならいっそ、このエピソード自体、なかったことにしてしまおう。
朱仝さんもいなかったことにしよう。ついでに雷横もいなかったことにしよう。


……朱仝さんの何が一番可哀想って、
面倒を見ていたかわいい坊っちゃんを殺されたこと以上に、
入山エピソードがひどすぎるばっかりに、後世の小説家や漫画家の先生たちから存在を抹殺されてしまうという、
拭い去れない宿命そのもの……なのかもしれませんね。