梁山から来ました

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水滸伝関連書籍bot ひとこと感想 039

 


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中国の前近代を舞台とした物語で、主人公がある組織のリーダーになる場面では、一種のテンプレ化された様式が使い回されていると思います。

 

まず、先人が築き上げた組織が存在していて、そこから突然、頭領がいなくなります(殺されるケースが多いですね)。リーダー不在の緊急事態において、メンバーたちは満場一致で主人公を次の頭領へと推戴します。

主人公は再三、断るのですが、メンバーたちの思いは強く、どうしても引き下がろうとしません。これ以上リーダーが決まらなければ組織がどうにかなってしまう(外から攻められるか、中から叛乱が起きるか)という段になって、ようやく主人公は、組織のために頭領になることを承諾する、という流れです。

 

水滸伝』は言わずもがなですが、『水滸後伝』の李俊が暹羅国の王になった経緯もそうですし、武俠小説になりますが『書剣恩仇録』の陳家洛と『倚天屠龍記』の張無忌が同じパターンです。

 

思うにこれは、中国の前近代における語り物の世界のなかで、主人公がいかに仲間から強く信頼されているかを示す、効果的なストーリー展開だったのでしょう。

もう一つには、主人公が私的な権力欲からではなく、飽くまで組織の維持及び繁栄のために、リーダーの役回りを引き受けるのだと、聴衆(読者)に訴えるためですね。 

ただ、我々21世紀の読者たちは、いくら形式が立派だろうと、主人公に中身が伴っていなければ、こうした展開を「白々しい」とか「茶番」と捉えてしまいます。

 

どうして宋江のような人間が主人公なのか、作中でこれほど熱い支持を得られたのかは、これまで、多くの論者たちが考察してきたところ。

その議論を見比べるだけでも、『水滸伝』という物語の奥深さを垣間見ることができます。

 

梁山泊におけるリーダー・宋江の正統性については、今後も考察を重ねていきたいと思います。