水滸伝関連書籍bot ひとこと感想 034
文繁本というのは、叙述や描写が詳細な本である。それに対して文簡本というのは、叙述や描写が簡略な本である。たとえば梁山泊軍と官軍が戦う場面を、文繁本が五十行ついやして描写してあれば、文簡本はそれを十行くらいでかたづけてあるというあんばいだ。
— 水滸伝関連書籍bot (@shuihu_related) 2019年9月4日
【世界】
要するに、「じっくり味わう水滸伝」と「忙しい人のための水滸伝」ですね。
文簡本というものが存在していたところを見ると、中国では割と昔から、商業が盛んで時間の貴重さが認識されていたためか、スピード感を尊ぶ価値観が発達していたようです。
とかく時間を節約したがるのは、現代の日本人も同じですね。一時期、「要約で読む日本文学」みたいな本も流行ってましたしね。
ただ、そんなタイムイズマネーな商業社会の価値観に染まった人間でも、「文学作品を要約する」って、さすがにどうなんだろう?という疑問は持ちますよね。
高島先生曰く、水滸伝の文簡本も、文繁本に比べていかにも味わいにとぼしく、文学作品としての価値には天地のひらきがあったそうです。
個人的には、文学作品が50行を費やして描写するのは、それだけの分量がないとちゃんと伝えられないことだからであって、それを無理矢理10行にしたら、全く違う何かに変わってしまうと思うんですね。
(だからbotでも、文脈を壊さないと140字に収まらないようなら、その部分の引用はあきらめますし、採用した箇所についても「引用元を当たってください」と、しつこいくらいにお願いをします)
ただ、要約にも使いどころはあります。
人々に、ある文学作品への興味を育んでもらい、最終的には原作をお手に取っていただくための「取っ掛かり」として。
あるいは、もう既に原作を読んでいる人に、そのあらましを思い出してもらうための「復習用」として。
この二つの用途に使われるのであれば、要約はかなりのお役立ちアイテムだと思います。
ですが、その作品を全く知らなかった人が、要約だけを読んで、作品の全てを知り尽くした気になるのは、やっぱり少し違う気がしますよね。
そのくらいなら、その要約の読解にかかった時間を、原作を読む時間の一部に宛てた方が、余程有意義だと思います。