水滸伝関連書籍bot ひとこと感想 024
「講史」は長いから、一日や二日では語りおわらない。連日語って何か月もかかる。話が一段落したところで一日分を終えるのではなく、話のまっさいちゅう、聴衆がかたずをのんだところで急に打ち切り、おあとはまたあした、と興をつなぐ。
— 水滸伝関連書籍bot (@shuihu_related) 2019年8月24日
【世界】
この、講釈の区切りのつけ方が、章回小説の各回の終わり方に強い影響を与えているんですね。
水滸伝を初めて読んだ頃は、なかなか慣れなかったですねー、この区切りのつけ方。
この様式美を崩したくないあまり、物語的には必要ないのに、無理やり「え?何?それからどうなるの?」と思わせるような状況をねじ込んでくる回もありますからね。
具体的には第38回、宋江が戴宗、李逵、張順と一緒に楽しく飲んでいるところへ、空気を読まない歌い女がやってきて歌い出し、腹を立てた李逵が一発小突いたらひっくり返ってしまったシーンです。
彼女は次の回の最初で息を吹き返し、その後彼らの物語に関わってくることはありません。
この「回の終わらせ方」って、現代の日本の連続ドラマによく似てるんですよね。
20時47分頃になるとヒロインの携帯に着電があって、「えっ、○○さんが事故に?!」でエンディングテーマが始まる、みたいな。
露骨にやり過ぎると白々しくなるのも、章回小説と一緒です。
一方、章回小説発祥の地である中華圏のドラマは逆に、(今は違うと思いますが一昔前までは)「回の終わらせ方」について、演出らしい演出をしていませんでした。
「時間になったから切る」くらいの感覚で、ブツっと画面が暗くなるので、それはそれで拍子抜けするというか、「あれ?終わった?」と、不安な気持ちになったものです。
多少の演出はほしいけれど、やり過ぎると視聴者をドン引きさせてしまう。
「回の終わらせ方」のさじ加減というのも、案外、奥が深いものです。