梁山から来ました

中華圏の小説、ポーランドボール、SCP財団、作曲、描画などが好き。皆様のお役に立てる/楽しんでいただけるコンテンツ作りを目指して、試行錯誤の日々です。

水滸伝関連書籍bot ひとこと感想 020


水滸伝の深読みをやっていると、
「百八星に入った好漢と、入らなかった人たちの違いは何だろう?」
とか、
「百二十回を最後まで生き残った好漢と、死んでしまった好漢の違いは何だろう?」
ということをよく考えるんですね。

後者について言えば、
孫立に代表されるような、よく言えば慎重で常識的な、悪く言えば自己保身を真っ先に考える人々が、生き残りやすい傾向にあるようです。

勿論、例外は存在します。血の気は多いけれども、たまたま激戦の場所にいなかったから生き残った好漢とか、温和で冒険はしないたちだけど、たまたま疫病にかかって亡くなってしまった好漢とか。
戦場においては、運のよしあしが人の生き死にに大きく影響しますから。


生き残った好漢たちは、「死んでしまった彼らと生き残った自分たち」について考えるうち、それぞれに異なる見解を持つようになったのではないか。
そう、個人的には妄想しています。

「この世は生き残った者勝ちだ。死んだ彼らは愚かだったのだ」と割り切るか、
「死んだ彼らは勇敢だった。卑怯者の自分は生き恥を晒すばかりだ」と嘆くか。
その2つの極端な立場の間にも、様々な態度が存在します。


たとえば、孫立と、その弟嫁の顧大嫂が「死んでしまった彼らと生き残った我々」について議論を交わすシーンを思い描けば、そこにはきっと、面白い物語が立ち現れてくるはずです。
激論のあまり顧大嫂が匕首2本を取り出して、あわや流血沙汰なんてことも考えられますね。

だから、(後伝に限らず)百回本あるいは百二十回本の後に続く世界を妄想するのはやめられません。


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