水滸伝関連書籍bot ひとこと感想 017
水滸伝の作者も読者も、ひとしく何心が「封建時代」と呼ぶ一つの埒(らち)のなかにあった。埒の外にある者にとっては当然説明を要するようなことが、そのなかにある者同士のあいだでは、あまりに自明にすぎてほとんど問題として意識すらされない。
— 水滸伝関連書籍bot (@shuihu_related) 2019年8月16日
【世界】
まさにその通り。
一つの「埒」の中にいる人たちは、彼らの常識について、何も説明してくれないんですよね。
彼ら自身、「その常識が常識でない世界が存在する」なんて思ったこともないので、説明する必要性を感じないのです。
説明の必要がない=言語化していない、ということなので、彼らは自分が属する「埒」に、そんな常識があることすら知りません。
「彼ら」という言葉を使いましたが、「我々」もまた同様に「埒」に捉われた存在です。
我々にとって空気のように透明で当たり前のことが、別の「埒」に属する人たちにとっては、ドン引きするようなけしからんこと、だったりします。
人が、「自分にとっての常識が絶対ではない」ということを認識できるのは、別の「埒」に属する人と出会ったとき、または、別の「埒」で生み出された文化の産物に触れたときでしょう。
「小説」は、後者(文化の産物)の代表的なものです。
中国の古典小説をじっくり深読みして得られるものは、色々あると思います。
自分の場合はなかでも、その読書体験を通じて、今自分が生きている社会の常識を相対視できる、この感覚が好きですね。
彼らの常識が絶対でないのと同じくらい、我々の常識もまた絶対ではありません。
水滸伝の深読みを通じて、その具体例をたくさん発見し、このブログでもご紹介していければと思っています。