水滸伝関連書籍bot 連想語り 083
#最終回発情期
— 水滸伝関連書籍bot 「水滸好きさんに質問」実施中! (@shuihu_related) 2020年5月11日
おっと、『水滸後伝』さんの悪口はそこまでだ! pic.twitter.com/Ym9YAlW3bM
どうも最近、新しいブログ記事を立ち上げる頻度が低くなっています。
それもそのはず、これまでは出先でスマホをポチポチやって記事を作ることが多かったのですが、近頃はめっきり部屋に引きこもってしまっていますからね……
近所の喫茶店にも長居しづらいし(そもそも閉まってるところが多いし)、困ったもんです。
近況はこのくらいにして、「最終回発情期(ファイナルファンタジー)」とかいう画期的な概念についてです。
これは、漫画『銀魂』内で出てきた造語だそうです。実に便利な言葉です。確かに、そういう漫画が多いことには、これまで何となく気づいていたんですが、的確な言葉がなくて言い表せなかったんですよね。
ただ、『銀魂』の作者さんも意識されていないことですが、実はこれは「昨今の漫画」にのみ見られる現象ではないのです。
清代に書かれた白話小説の『水滸後伝』が、登場人物の多数が雪崩をうって結婚していくエンディングで書かれておりまして……
しかも、「複数のカップルの結婚式で終わる」というのは、その時代の小説によくあったケースらしいのです。
(もちろん、当時の「結婚」を「発情の結果起こる現象」と解釈するのは無理がありますが……)
『水滸後伝』の熱心な読者のひとりであったわが国の曲亭馬琴も、『八犬伝』をこの形式で終らせています。
児童向けの『八犬伝』のラストを読んだときは、ちょっと唖然としましたね。
最後のページをめくったら、
「〇〇(八犬士の一人)は、△△姫と。
〇〇(八犬士の一人)は、△△姫と。
(以下5、6回繰り返し)
それぞれ結婚し、末永く幸せに暮らしました。」
みたいなことが書いてあったので。
まあ、自分はそれまで『八犬伝』の物語を読んでくるなかで、八犬士たちとヒロインの仲を密かに応援していたので、唖然とした次の瞬間には、ニヤニヤが止まらなくなったわけですが。
ちなみに田中芳樹先生は、このエンディングにはあまり肯定的ではないようです。田中先生の『新・水滸後伝』は、まあ最後に結婚式はあるにはあるんですが、物語上本当に必要な人物しか、そこでは結婚させていません。
皆様はいかがでしょう。「最終回発情期」なエンディングには、モヤっとしてしまう派ですか?
自分はと言いますと、『八犬伝』の読後の反応からもわかるように、それほど嫌いではないです。主役級・脇役問わず、それまでの物語で見守ってきたキャラたちが幸せになるとわかれば、祝福したい気持ちになります。
ただ、それまで全く接点がなかった(または接点を作中で書かれていなかった)キャラが、最後に突然繋がりを持ち、ちょっとした会話を交わした後にくっつくのは、納得いかない部分もありますね。
そんな選択で大丈夫か?物語が終わってすぐ別れるんじゃないか?…などと、不安になってしまいます。
『水滸後伝』で言えば、燕青と盧二郎の娘の結婚や、呼延鈺と呂のお嬢さんの結婚、楊林と方明の娘の結婚などは、過去にフラグが存在しているので、まあ納得がいきますが、李俊と聞煥章の娘や、宋安平と蕭譲の娘の間には、それまで何もなかったので、違和感を覚えてしまいます。
まあ、当時の読者からしてみれば、「聞煥章の娘については過去に霊験があり、『ゆくゆく高貴の人に嫁ぐ』ということがわかっていた。それこそがフラグじゃないか。それ以上、何を望むことがある?」ということになるのかもしれませんが。
楽和さんのケースなどはもっと酷くて、作者の陳忱先生はそれまでの物語で存在をほのめかしてすらいなかったキャラを、最後に彼と結婚させるためだけにでっち上げています。まさに……作中でも言われているように、「ありあわせの嫁さん」です。
楽和さんは最重要人物のひとりなんだから、結婚相手ももっと早く出しとけよ……などと、現代の我々は考えてしまうのですが、当時の読者からしてみれば、「結婚相手は中土出身の人物で教養があり、芸事にも明るく、公主じきじきの推薦を得られるほどの人柄と紹介されている。そういう人物を娶れば、楽和が幸せになれるのはわかりきったことじゃないか。これ以上、何を望むことがある?」ということなのかもしれません……。
「ラスト間際の結婚(カップル成立)」というのも、考え始めると結構、奥が深いものですね。他にも、現代の漫画で起こる現象と『水滸伝』や『水滸後伝』の中で起きる現象を比較できると、楽しみが広がるのではないかと思います。
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「武俠好きさんに質問」第24回への回答(セリフ・会話編)
回答その2。好きなセリフ・会話です。
金庸15作の1作につき1箇所、これまでに当botがつぶやいたなかからピックアップしていきます。
ネタバレにはご容赦ください。それでは、参ります。
『飛狐外伝』
程霊素「毒にあたったら、助けるすべはないと仰ったけど、それは、この世に自分の命をなげうってまで、病人を助けようとする医者なんかひとりもいないと思っていらしたからなの。兄さん、師父はご存じなかったのよ。わたしが……わたしがあなたのためならそれができるということを……」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2019年7月31日
【飛狐外伝】
程霊素の亡くなる間際のセリフですね。自分の命を捧げる覚悟があれば、人はできることがちょっとだけ増えるのです。妹として胡斐に付き随い、命を投げ打ってまで彼を支えた程霊素は、金庸作品の中で一番好きなヒロインです。
『雪山飛狐』
胡斐「おれがよい人間だと思うか?」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2019年7月18日
苗若蘭「あなたがよい人だということは分かっていたの。あなたを見るよりずっと前から。ねえ、いつ分かったのかしら、私があなたに心を許したということを?」
【雪山飛狐】
「雪山飛狐は時間をテーマとする前衛芸術である」と主張する根拠のひとつが、苗若蘭のこのセリフです。二十数年前に失踪したかわいそうな子に対する若蘭の発言は、どれも印象深いです。
『連城訣』
狄雲「師父、おれ、黄金の大仏の分け前なんかいりません。どうぞおひとりで持って行ってください」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2019年7月21日
戚長発(どこの世界に、これ程の宝の山を目の前にして、手に入れたいと思わぬ者がいようか?狄雲め、何か企んでおるに違いない)
【連城訣】
文庫本2巻にわたり狄雲と共に冒険してきた読者には、彼が「宝なんかいらない」という心理がわかりますが、戚長発には理解できず、裏の意図を勘ぐってしまいます。師父なのに、宝に夢中で弟子の気性をわかろうともしない、そこが彼の限界ですね。
『天龍八部』
老僧「咄!四つの手を握りあわせ、内息を通して陰陽を調和させるのじゃ。王覇の夢も血の恨みも、すべては塵と消え失せよ!」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2016年8月15日
(天龍八部)
少林寺の老僧の導きで、蕭峯の父・蕭遠山と慕容復の父・慕容博が、長年蓄積させてきた因縁や恨みつらみの一切を雲散霧消させしまう場面。訳者の先生の粋な計らいで、声に出して読みたい日本語になっています。この後の二人の言葉も乙です。
『射鵰英雄伝』
黄蓉「あなたは本当にわたしによくしてくれるわ。わたしが男でも女でも、きれいでも猪八戒みたいでも……わたしがこんな格好をしている時は、だれだってよくしてくれる、そんなのありがたくもないわ。わたしが汚い物乞いの時によくしてくれるのが、本当にやさしい人ね」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2016年10月12日
(射鵰英雄伝)
物乞いの少年の変装を解き、娘の姿で郭靖の前に現れた黄蓉のセリフです。美しく、武芸の腕も立ち、誰よりも頭脳明晰な黄蓉が鈍感な郭靖に惚れ込んだきっかけは、ここにあったんですね。黄蓉のセリフは他にも印象的なものが多いです。
『白馬嘯西風』
李文秀「漢人の皇帝が何をしようと、人々が喜ぶまいと、どうでもいいことです。無理なさらないでください。それにしても、本当に欲しいと思っているものほど、手に入らないものね。人が押しつけてくるものは、良いものであろうとなかろうと、決して好きになることがないのに」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2017年9月7日
【白馬嘯西風】
自分にとっては、『白馬嘯西風』と言えば、このセリフです。そう、本当にほしいものほど手に入らないのが人生。そして、ゴリ押しはよくないですね。
『鹿鼎記』
韋春花「当時、ちょくちょく来てくれた回族の男がいてね、大した男前だったから、いつも心の中で思ってたんだよ。うちの小宝は鼻筋が通ってるから、ちょいとあの人に似てるってね」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2017年7月18日
韋小宝「漢人、満人、モンゴル人がいたなら、チベット人はいなかったかい?」
韋春花「そりゃいたさ」
【鹿鼎記】
金庸14作(『越女剣』を除く)で最後に書かれたと思われるシーン。大冒険を終え、嫁さんたちを連れて帰ってきた韋小宝と、カーチャンの会話です(本当はこの3倍くらいの長さがあります)。ここの会話には、金庸先生が小説作品に込めた願いみたいなものがギュッと凝縮されていると思います。
『笑傲江湖』
儀琳「菩薩さまにお祈りしてたわ。令狐兄さんを忘れられますように、令狐兄さんが無事でいられますように、任お嬢さんと添い遂げられますようにって。でも、あれもこれもお願いしたら、菩薩さまはきっと呆れてしまうわ。だから、これからは令狐兄さんの幸せだけを祈ることにしたの」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2018年6月7日
【笑傲江湖】
面白いセリフが目白押しの作品なんで、これは『笑傲江湖』中の暫定一位とさせていただきます。そのうちもっと気に入ったセリフができるかもしれません。儀琳さんは真面目なセリフもすっトボケたセリフも、独特の魅力があって好きです。名ゼリフメーカーですね。
『書剣恩仇録』
陳家洛「私は自分の同胞のためだから、辛い思いも当たり前だ。だけど、カスリーは見たこともない人たちのために……」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2018年11月27日
香香公主「あなたを愛してるんだから、その人たちは私の身内じゃないの?回族の仲間たちを、あなたも愛してくれたじゃないの」
【書剣恩仇録】
カスリー、天使や……。まあ、ホチントン姉さんも最高の姉さんなんですけどね!陳家洛は優柔不断で、よくヘタレ扱いされてますが、実際、もしこの二人に思われたとしたら、どっちを取るか決められます?普通に無理だと思います。
『神鵰俠侶』
一灯大師「これが、そなたの息子を殺した男じゃ。手を下すがよい」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2017年1月23日
周伯通「瑛姑、お前がやったれや」
瑛姑「この人がいなければ、二度とあなたに会えなかったわ。それに、死んだものはもう生き返らない。今の幸せだけを味わって、昔の恨みは忘れましょう」
【神鵰俠侶】
裘千仭の死に際し、前作から続いてきた因縁がほどけるシーンの会話ですね。一灯大師、周伯通、瑛姑の三人の物語は大変味わい深いです。この後、向こう三軒両隣の関係になって暮らし始めるのもなんか好きです。
『俠客行』
張三「掌門は一体どなたかな?」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2019年7月15日
封、成、斉、廖、梁「こいつだ!こいつが掌門だ!」
廖自礪「斉師兄はもっとも年長、序列からして掌門にふさわしい」
斉自勉「齢が何の役に立つ?廖師弟は腕も立ち、門下に人材も多い。こたびの事でもいちばん尽力したろう」
【俠客行】
石破天(仮)や白自在などのセリフにも面白いものはたくさんあるのですが、敢えてこのくだりを。自分こそ雪山派の掌門になろうと主張していた白自在の弟子たちが、俠客島の使者に訊かれた途端、掌門の地位を押しつけ合う、その様子が見事(いや、無様?)です。
『倚天屠龍記』
謝遜「事は全て成崑とおれから起こったことだ。絡みあった恩も怨みも、われら二人で済ますべきことだ。師父よ、おれはあなたに武芸を教わった。成崑め、おれはお前に家族を皆殺しにされた。大きな恩も討たねばならぬ仇もある。今日ここで決着をつけようではないか」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2017年2月17日
【倚天屠龍記】
謝遜が、主人公の無忌が生まれるよりずっと前から追い求めていた仇であり師父の成崑(円真)と、ついに対峙するシーン。一言ではとても言い表せない感慨が、伝わってくるセリフです。これも声に出して読みたい日本語ですね。
『碧血剣』
袁承志「皇帝に会いにいくのではないのか?」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2018年6月5日
祖大寿「袁督師は忠義ひと筋のお方でございました。その若君ともあろうお方が、私おように、満清に降る無恥なふるまいをなさってはなりません」
袁承志「祖おじさん!祖おじさん!」
祖大寿「おじと呼んでくれたことに感謝します」
【碧血剣】
袁崇煥の元部下でありながら清に降った祖大寿が、ドルゴンのもとに忍び込んで捕まった袁承志を逃がすシーン。祖大寿の胸中の複雑さに、思わず考え込んでしまいます。主人公たちよりも、壮年かそれ以上の歳の人物が発するセリフにハッとさせられる作品です。
(今見たら誤字ってますね。次に登録するときには気をつけないと……)
『鴛鴦刀』
袁夫人「満清皇帝がお聞き及びになったというこの双刀に、天下無敵になれる大きな秘密があるという話は、果たして間違いありません。でも皇帝がその秘密をお知りになっても、その通り実行できるかしら。皆さんご覧になって!」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2018年1月25日
鴛刀・鴦刀の刃の文字〈仁者無敵(仁ある者に敵無し)〉
【鴛鴦刀】
『鴛鴦刀』のラストの、オチにあたるセリフです。多くの人が求め、熾烈な争いを繰り広げる秘宝。しかしそれを手に入れたところで、何が変わるわけでもないのかもしれない、という。小粒ながら、最後まで立派に金庸作品している短編です。
『越女剣』
范蠡「お喜び申し上げまする!」
— 金庸セリフ&会話bot (@jinyong_riyu) 2018年2月1日
勾践「呉国の剣士があのような凄腕であると思い知ったというのに、何がめでたく、喜ばしいと申す?」
范蠡「大王は千難万難があろうと、決して怖気づきはせぬと申されました。大王がそう決心なされたからには、大事は必ずや成就いたしましょう」
【越女剣】
ごく短い作品ですが、なかなかどうして、グッとくるセリフが多いです。その中でも、この会話が頭ひとつ抜けていました。この一節だけで、范蠡の人となりがはっきり見えてきます。
……とまあ、ひととおり振り返って思うのですが、データベースから消えてしまったことが悔やまれるセリフや会話が多すぎますね……。
できるだけ早く、各作品からの名セリフや会話を復活させて皆様にお届けできるよう、日々頑張っていこうと決意を新たにしたのでありました。
「武俠好きさんに質問」第24回への回答(シーン編)
まずは「お気に入りのシーン」について。
セリフ・会話に関しては、また機会を改めて回答します。
武俠の醍醐味は戦闘シーン……という方が大多数かと思うのですが、この点、自分はよほど好みが変わっていて、たくさんの人が集まってごちゃごちゃ話してるシーンが、とにかく好きなのです。
『飛狐外伝』は、掌門人大会が始まって24個の杯を奪い合う話をしてるところ。
『雪山飛狐』は、外界との連絡手段を断たれた人々が各々の秘密を打ち明ける場面。
『連城訣』は、水笙を迎えに来た人々が花鉄幹の言い分を信じてしまう場面。
『天龍八部』は、三十六島七十二洞の大会とか、少林寺の前でのやりとりなど。
『射鵰英雄伝』は、乞食党の大会と、鉄槍廟の中での黄蓉の推理。
『鹿鼎記』は、神龍島のクーデタ未遂とかネルチンスク条約締結とか。
『笑傲江湖』は、五覇崗や令狐冲の掌門就任式、五嶽剣派の大会などなど。
『書剣恩仇録』は、鉄胆周旦那が「静まれーい!静まれーい!」ってやってる場面。
『神鵰剣俠』は、全真教の教主を決めるところと丐幇の幇主を決めるところ。
『俠客行』は、俠客島に集まった人々が臘八粥をよばれてる一幕。
『倚天屠龍記』は、六派連合と張無忌の対決や丐幇の大会、それに少林寺。
『碧血剣』は、李自成の入城後、側近や兵士たちの心が少しずつ離れていくくだり。
腹黒い登場人物の陰謀により、または偶然の重なった結果で、場の流れが作られ、なんとなく合意形成に向かっていってしまう、その過程が非常に興味深いです。
また、場面によっては、話し合いの中盤以降に主人公側の人物が敢然と立ちあがり、権力者を茶化したり、卓越した武功を見せつけたり、時には自分の命と引き換えにして、場を支配している「流れ」をガラリと変えてしまうこともあり、それはそれでたまらなく魅力的です。
金庸先生は、別名義で香港の新聞に社説を連載し、中華圏の政治状況を、ずっと観察し続けた方です。こうした経歴があってこそ、長篇12作のそれぞれにバリエーションに富んだ話し合いの場面を織り交ぜることができたんですね。
そして、「武俠」というジャンルは、一見荒唐無稽な世界観に見えつつも、深いところで現実世界のあり様を的確に反映しているからこそ、単なるエンタメにとどまらず、文化的に大きな意義を持っているのだと、個人的には考えています。
水滸伝関連書籍bot 連想語り 082
大山大将のような働きをした人が凱旋すると、待ちかまえていたのは陸軍准尉への任官であったという。これは宋朝廷の賞罰が、どんなにでたらめであったかを皮肉ったのだが、それがそのまま著者の生きていた明代の状態にあてはまるものであることは言うまでもない。
— 水滸伝関連書籍bot 「水滸好きさんに質問」実施中! (@shuihu_related) 2020年4月30日
【虚実】
この文章を初めて読んだのは15年ほども前になりますが、当時は大山大将が誰かわからず、喩えがピンとこなかったのです。
今はわかります。『坂の上の雲』ちゃんと全巻読みましたから!(ドヤァ
日露戦争における大山大将の役割は、征遼戦において宋江が果たした役割と類似。
(小説水滸伝における征遼戦は宋の圧勝、日露戦争は日本が辛うじて判定勝ちに持ち込んだ、という違いはありますが)
そして「陸軍准尉」というのは、征遼戦から帰った宋江が賜った「保義郎」の地位の低さを喩えたものです。
あー……
それは確かに、ミスマッチっていうレベルじゃありませんな。
賜った方だって、真面目に怒るのもバカらしくて、笑うしかないだろうと思います。
ところで、この『水滸伝 虚構のなかの史実』が書かれたのは1970年代ですが、著者の宮崎市定先生は、まさか大山大将を知らない人間が読者になるなんて、考えもしなかったことでしょう。
なんだか、自分の無知が申し訳ない気分ですが……
ここは、「それほどに世代を超えて愛された書籍なんだ」と、ポジティブに考えることにいたしましょう。
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「水滸好きさんに質問」第10回への回答
パッと思いついたのは、朱富か裴宣か、というところです。
◆朱富
まず、「一度出来た縁は大切にする」という点がポイント高いです。
それから、「何の特技も持たない自分でも、朱富の手伝いならできることもありそう」というのがあります。朱富が買い出しで店を離れてる間、鍋を弱火にかけて掻き回しつづける、程度のことなら、多分……。酒は一滴も飲ま(め)ないんで、盗み飲みする心配もないですしね!
……って、もしこれが職人気質の好漢なら、あちらから「てやんでえ、俺の酒が飲めねえ奴なんざと付き合ってられっかい!」と断られそうなところですが、朱富はその点も寛容です。同じく下戸の李雲先生ともうまくやってます。自分は李雲先生と一緒に朱富お手製のノンアルドリンクを有り難くいただくことにします。
そしてメシウマなのもいいです。まあ他の居酒屋連中も大概メシウマではあると思いますが、いくらおいしくても、李立と孫二娘の料理には、ほら……一抹の不安が……あるじゃないですか。
◆裴宣
義兄弟になることを想像すると、どうしても「自分が相手に対して何をしてあげられるのか?」が気になります。
まあ、神がかりの好漢たちに対して自分ができることなんかたくさんはないわけですが、「正しいと思ったことのために一緒に死んであげる」ということは、一回限り、できるはずなんですね。
でも、行動原理がちゃらんぽらんな好漢が信じた「正しいこと」のために死ぬのは、やっぱりイヤじゃないですか。あまり高い命ではないとしても、一つしかないわけだし。後から天国的な場所で、「やっぱり俺が間違ってたよ!ゴメンね!てへペロ」って言われても……まあ死んだものは仕方ないし、最終的には「いいよ!」って言うしかないですが、モヤモヤは残りますよね。
その点、裴宣なら、恐らく「このために死んでもいいと思う、正しいこと」を見誤らないと思います。彼が信じた「正しいこと」のためなら、一緒に死ねます。
まあ、いくら裴宣とても、ものすごく巧みな詐欺に引っかかってしまう可能性はゼロではないでしょうが……そのときはもう、腹を括るだけです。裴宣で見抜けないなら致し方ない、と。
人一人を信じたら、状況に左右されることなく、最期まで命運を供にする。
「義兄弟になる」って、そういうことだと思うのです。
ひとりごと
#武俠好きさんに質問
— 秦暁 Aguila Jata (@heki007reki) 2020年4月28日
現代の日本が舞台でも抵抗がなければ、池井戸潤先生(半沢シリーズで有名)と横山秀夫先生(ロクヨン、半落ちなど)の小説をオススメしたいと思います。→https://t.co/UOWR283iB3 https://t.co/NA46KK5gOW pic.twitter.com/qkd3gEicVT
このツイートについてなんですが……
呟く前から、「まず間違いなく、誰の心にも響かないだろう」ということはわかっていました。
この質問に対してお寄せいただける回答は、(質問が分野を限定していないにも関わらず)ほぼ中国関係か歴史関係に限られてくるはず。そこからあまりにも外れた異質な回答は、「なかったもの」と同じことで、あっさりスルーされてしまうだろう。
その程度のことは、簡単に予測がついたんですね。
なぜかと言えば、人は自分の見たいものを見、聞きたいものを聞く生物だから。
自分もやはりその例に漏れません。「武俠好きさんに質問」の企画の主催者だから、このタグにお寄せいただいた全てのツイートに目を通しますが、そうでなければ、一瞥して「自分の興味関心とは違うことが書かれているな」と感じたツイートの上では目を滑らせ、次を読み進めていると思います。
しかし、そうは言っても……
人にはそれぞれ、言わずには済まされないことがあります。
そして自分にとって上記の内容は、「つぶやいた」という記録を残さずには先へ進めない、大事なことだったのでした。
もしかしたら、「武俠好きさん」に向けたと見せかけて、
自分がここで狙っているのは、池井戸先生や横山先生の小説が好きな方に、このツイートを見つけてもらうこと……なのかもしれません。
現代の日本を舞台に、自分の考える正義を貫こうとする人々の熱いドラマが好きで、昔の中国の話にはあまり馴染みのない方。
いつか何かの拍子に、このツイートがそうした方々に届いて、
「武俠というジャンルが存在するんだ」
という認識と、あわよくば些かの興味をお持ちいただければ。
きっとそれこそが、このツイートの存在意義となるでしょう。
「武俠好きさんに質問」第23回への回答
池井戸潤先生(半沢シリーズで有名)や横山秀夫先生(ロクヨン、半落ちなど)の小説をオススメしたいと思います。
大きな権力や世渡りのうまい人々のために、真実や正義が歪められるというのは、何も武俠小説のなかだけのことではないんですよね。
武俠の主人公たちが自分の運命を切り開いていく様子を「あれはファンタジーだから」と突き放して見るのは簡単ですが、現代の日本を舞台とした小説にでも、難しい現実のなかで、どうにか自分が考える正しいことを貫こうとして行動しているヒーローたちはいるのです。
(決してうまくいくことばかりではありませんが、最後の最後に判定勝ちくらいに持ち込める場合も多いようです。まあ、「小説の中だから」と言ってしまえばそれまでなんですが……)
というわけで、企業の会計に抵抗がなければ、ぜひ池井戸潤先生を。
警察やジャーナリズムの事情に抵抗がなければ、ぜひ横山秀夫先生を。
時代や国家の壁に捉われない、熱い志を感じていただければうれしい限りです。